経済コーナー第4

杉原 薫

大阪大学教授



★★【資源節約型社会の発展・波及を】★★

 欧米諸国が進めた資源集約型の経済発展に対して、日本は省エネ技術などで資源節約型の経済発展を実現した。放置すれば世界は資源集約的な発展に進みかねない。環境面のみならず、経済的にも持続可能なモデルとして、日本は世界に資源節約型の発展を発信する義務がある。


希少性の克服 もう1つの道
 
経済学は、希少性との戦いを最大の課題の1つとしてきた。モノに価値がつくのはそれが希少だからだ。人にできないスキルを身につければ高い報酬がもらえる。そうした期待が公正に実現する経済社会を作れば、リスクの高い投資を伴う技術革新にも弾みがつき、労働生産性が上昇して人びとが欲するものを安く供給することができる。
19世紀以来の人口増加にもかかわらず人類が資源の希少性を克服し、生活水準の向上を達成してきたのは技術革新とそれを支える市場経済システムによる。これが通常の考え方であった。
 1973年の石油危機で日本がパニックに陥ったころ、原油価格が上がれば採掘技術への投資が正当化され、原油採掘可能量が増えるから、まったく原油を輸入できなくなることはあり得ない、日本の長期戦略は比較優位のある製造業に特化したままでよい、という意見が当時の本欄に掲載された。なるほど、経済学はこういうふうに考えるのか、と思ったものである。
 日本はほぼこのアドバイスのとおりに進んできた。しかし、大量の原油を輸入して資源集約的な工業化を進めたわけではない。国内総生産(GDP)1人当たりエネルギー消費量でアメリカや多くのヨーロッパ諸国よりはるかに低い水準を維持したまま、労働生産性や1人当たり所得でそれら先進国と肩を並べるようになったのだ。省エネ技術に力を入れ、原油の絶対輸入量をあまり増やさずに生活水準を着実に向上させてきたのは世界に誇れる成果であった。
 だが、現代の世界経済は、資源・環境問題を日本のようなかたちで解決する方向には動いていない。どうして日本でできたことが世界全体ではできないのか。工業化の歴史を振り返りつつ、日本が資源節約型の発展経路を発見した条件をさぐってみよう。
 イギリス産業革命に端を発し、大西洋を舞台に展開した19世紀以来の工業化の過程は、新大陸の資源に多くを依存していた。もともと、なぜフランスやベルギーではなくイギリスで産業革命が起こったかという問題には、度重なる重商主義戦争で優勢に立ったイギリスが大西洋貿易を牛耳っていたことも多少は関係していた。その背後に、西アフリカから米大陸、カリブ海へ向かう奴隷貿易があったことは言うまでもない。
 しかし19世紀後半以降、北アメリカの膨大な土地や資源が鉄道と蒸気船で西ヨーロッパと繋がるにいたって従来とは比較にならないほどの資源が「大西洋経済圏」に取り込まれた。土地や木材の豊富なところに西ヨーロッパから労働と資本が投入され、アメリカ経済は急拡大した。他方、西ヨーロッパは安い食料や原料を輸入し、移民で人口圧を緩和することで実質賃金を上昇させた。経済成長の要点は資源の取り込みによる希少性の克服にあった。


労働集約産業 移転でも不変
 
アメリカのフロンティアが消滅し帝国主義的な領土分割が終わった20世紀前半になると資源問題の焦点は鉱物資源、とくに石油の採掘権の確保に移行した。さらに2つの世界大戦は国家が膨大な資源を軍事化と戦争の遂行、戦後処理に費やすことを常態化させた。非日常的な完全さを求める軍事技術は資源集約的、資本集約的になりがちである。
 これに対し、過去数世紀の東アジア経済の歴史は、西洋とは別の方法で土地や資源の制約と戦ってきた歴史であった。16−18世紀の中国や日本では稲作農耕にもとづく労働集約的な技術が発達し、家族労働を精いっぱい吸収するための制度的文化的な工夫が編み出された。遠隔地貿易や公債・資本市場は発達しなかったが、希少な土地の生産性を上げる方法や、商品作物の栽培や手紡、手織りなどの副業を組み合わせて年間労働日数、労働時間を増やすノウハウでは西ヨーロッパをしのぐ洗練が見られた。
 欧米による植民地化を免れた東アジアの多くの地域は、19世紀後半以降、このような高い「初期条件」のなかに西洋の技術を取り入れ、それを少しずつ改善しようとした。その代表的事例が明治日本の「労働集約型工業化」である。そこでは工場制機械工業の利点を生かしつつも、資本を労働で代替できるところはするという、一見工業化の精神に反するようなことが試みられた。
 都市化は資本、資源がかかるので、農村工業の比率を高くして農村の労働力を吸収し、情報の不足は政府が補った。近代工業でも、簡便で安価な機械の生産や出稼ぎ、労働者の昼夜交代制など不足がちな資源や資本の節約と低賃金労働の多用が図られた。その結果、日本の工業品は安価な製品を求めるアジア市場では強い国際競争力を発揮した。
 日本は一方で資源集約的な重化学工業化を進めたし、中国東北部の開発も試みたが、結局、欧米の工業力に追いつくことはできなかった。比較優位がどこにあるかという点だけで判断すれば、戦後への遺産として残った最大のものはやはり「労働集約型工業化」だった。
 戦後の日本はいったん非軍事化、民主化を求められたが、中国共産化の影響もあって工業力再建のチャンスがすぐに訪れた。戦前からの綿業や雑貨に加え、造船、家電、自動車など、重化学工業のなかで比較的労働集約的な分野に次々と進出した。冷戦体制下のアメリカが軍事産業を含む、資源集約的、資本集約的な産業に特化しがちだったとすれば、日本は民需に特化しつつ資源節約的、労働集約的な産業に進出しようとしたので、新しい国際分業体制が比較的スムーズに成立した。
 高度成長はアメリカからの技術導入と中東からの安価な原油の輸入のどちらが欠けていても不可能だった。それでも土地の制約のなかで農業の生産性を極限まで上げるとともに、工業でも欧米に比較すれば資源節約的な発展を一貫して追求したのは、独自の選択だったと言えよう。
 70年代以降、ドルで測った日本の賃金が急上昇し、労働集約的な産業の一部が他のアジア諸国へ移転するとともに、労働節約的、知識集約的な技術が意識的に追求されるようになった。資本の不足も解消された。にもかかわらず原油価格の高騰を背景に、資源節約的な技術を求める努力はむしろ強化されたように思われる。


経済的にも持続可能性
 日本のような資源節約型の発展を他の諸国へ波及させることはできるであろうか。地球環境問題に配慮しつつ、世界経済の成長を考えようとすれば、これは決定的に重要な問題である。中国の原油輸入の急増、西部大開発の試みを見ると、緊急性もある。しかし、市場経済システムは、資源集約的か資源節約的かという選択に対しては原理的に中立的である。
 欧米でも東アジアでも歴史的な選択は、生産要素の賦存状況(とくに土地、資源が資本や労働に比べてどの程度豊富であるか)に応じてさまざまになされてきた。戦争や地域紛争もしばしば選択を決めた。放っておけば世界の流れが資源節約型の方向へ収れんするという保証は、今後もないと言うほかはない。
 だが、そうであればなおさら、知識集約型、資源節約型の発展が環境との関係で望ましいだけでなく、経済的にも持続可能だということを日本は国際的に発言する義務がある。もとよりこの提案に産油国や軍事化を目指す国が簡単に協力するとは思えない。アメリカは資源集約的な分野での優位を維持しようとするであろう。日本がリーダーシップを発揮しようとすれば、経済援助での選別を利用するなど相当踏み込んだ、ルール設定的な行動が取れなければならない。欧米にもきびしい選択を迫ることになる。
 要するに、日本は国際関係に今よりも強くコミットせざるをえなくなるであろう。その覚悟をしても、日本の真のメッセージを伝える意志があるかどうかが、いま、われわれに問われている。